Moi et La France ~つかず離れず、だけど確かに私の原点だった場所~
私が初めて訪れた海外。
それはフランスのオルレアン(Orléans)だった。
高校で自分が所属していた部活が、市主催の交流プログラムに推薦されたのだ。
だから実をいうとフランスという国に対して私自身の特別な思い入れはなかった。
ただ“海外”という言葉から生まれる学生ならではの高揚感と、「部活で行く」という何とも言えない奇妙さを感じ出発したことを覚えている。
今回は『私とフランス』という、いかにもエッセイもどきな体裁で、自身とフランスについての不思議な距離感、そしてこの旅から無意識に芽生えていった海外への視点について書いてみたいと思う。
相変わらず自分の事を書くのは苦手なもので、読みづらい文章かもしれませんがご容赦を…
旅というより“舞台”だった初海外
出発は新緑が美しい季節だった。
合唱部ということもあって、そもそもが「歌いに行く」ことが目的だったこの旅。
現地の方に喜んでもらうために、持ち歌含めフランス民謡やフランス語の現代合唱曲を新たに30曲以上練習し、歌詞や振り付けなど、けっこうなボリュームで準備した。
ステージ自体も規模や時間帯、年齢層を踏まえ、オペレーションA・B・C(笑)とある程度マニュアル化していったので、私にとっての初海外は「旅」というより「舞台」だったような気がする。
おまけに夏には学生生活を賭けた大きな大会も控えていたので、とにかく頭のなかは「歌」で溢れ、余計に「旅」という感じはしなかったのだ。
▼『Au Clair de la lune』(月夜に)フランスの代表的な子どもの歌。バージョンは違うけど、この曲をこんな感じで歌いました。
オルレアンとジャンヌ・ダルク
オルレアンはパリ近郊の南西に位置する都市。
中世のイングランドとフランスの百年戦争におけるオルレアン包囲戦にて、ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)によって解放された街だ。
人々はジャンヌを『オルレアンの乙女』として深い謝意を表明し、今でもその事に誇りをもっている歴史深い場所である(実際ジャンヌ処刑の際も、保釈金を市民全体でかき集めたらしい)。
要するに街全体が“ジャンヌ推し”なのだ。私たちの訪問もこのジャンヌ・ダルク祭に参加することが大きな目的だった。
www.tourisme-orleansmetropole.com
ちなみにここで親しみを感じた“Jeanne d'Arc”という存在は、やがて私が女性史の深みにはまっていくきっかけになり、
一週間以上に渡り私たちをスマートに案内してくれたツアーコンダクターの仕事ぶりは、私の目にはとても刺激的に映った。
Est-ce le défilé ?
訪問自体は、有難いことに各施設の慰問コンサートに加え、オルレアン大聖堂やサント・クロワ大聖堂(なんと司祭さんのご厚意でパリのノートルダム大聖堂でも!)など、由緒ある教会で歌わせて頂き、これらの経験は自分のなかで言葉にできない人生の大きな転換期となった。
これについてはさすがに文字数が足りないので、また「歌うこと」をテーマに改めて振り返ってみたい。
その他にとくに印象的だったのが、オルレアン市主催のパレード(le défilé)だ。
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パンデミックで人数制限してるっぽいけど、一見の価値ありな映像。ジャンヌの功績に合わせて国防にあたる女性軍隊の存在も目立ちます。歴史シーンを子どもたちが演じているのもおもしろい。
その年に選ばれたジャンヌ役の子どもを筆頭に、仮装や演奏、大道芸などをしながら市内を練り歩くパレードで、なかなかに大規模な軍隊の行進も見ることができボリューム満点。
しかし私たちはこのパレードに参加すること自体も、開催時間が何時で、どこでスタンバイし、何の曲をどのくらい披露するのかもまったく説明を受けていなかった。
“たぶん?参加するらしい”
“どうやら?日本らしく浴衣を着ていくらしい”
“おそらく?ここで待機してメイン会場へ移動するらしい”
というあやふやなインフォメーションだけで、まだ肌寒いなか下に学校ジャージを着た浴衣姿のまま(笑)どこかのサーカス団子飼いの子熊を物珍しく見ていた。
小一時間待機しているとようやく列が動いたので、いよいよ説明を受けるのかと思い「長かったね~海外っぽいね~」と部員たちと談笑しながら歩き出した。
のだが。
次の瞬間、耳に聞こえてきたのは『桜』のイントロ。
そしてどこかから聞こえる
“Une chorale d'étudiants du Japon !”(日本の生徒たちからのコーラスです!)
というアナウンス。
ジャポーン!だけかろうじて聞きとった私たちは、
「へっ?これ本番?今ここで歌うn……♪さぁくぅら~~~さぁくぅら~~~」
と、瞬時に歌い舞ったのでありました…。
あれほどまでに『桜』のイントロがシュールに聞こえた瞬間はなかったわ…。
ぬるっと始まりぬるっと終わった由緒ある(はずの)パレード。
私たちが思う以上に「海外は海外だった」という、笑いながら文化の違いを受けとめることができた、すこぶる楽しい思い出だ。
ちなみにこの後しっかり数曲を歌いきり、子熊の後をしずしずと歩きながらめでたくパレードを堪能することができた(やっぱりシュール 笑)。
遠くの国は私たちと同じ“誰か”の生活がある「居場所」
基本的に毎日3~4ステージを組まれていたので、朝起きる時間も寝る時間も日本の生活と変わらず(学生だったしそういうところも管理されてた)、着る服も何も変わらぬ制服のまま。
さらに自分の周囲も部活動のメンバーばかりで、先輩もいるなか「フランスイェーイ☆」という欲望全開のテンションにはなりづらかった。
確かに異国の地にいるのだけど、私たちのテンションは不思議なくらいニュートラルだったのだ。
ある日、早朝5時頃にホテルの窓から外を眺めていると、きっちりスーツを着込んだ男性が足早に街の方へ歩いていった。
そしてそんなに間を置かないうちに、またもやスーツを着込んだ人が自転車で同じ方向へ駆け抜けて行く。
それを見て私は「結局どこの国でもみんなそんなに変わらないんだなぁ…」と眠気眼のまま何となく思った。
今まで海外の人は仕事に重きを置いてないと聞いていたわけで、確かに積極的に働きたくないのは国民性かもしれないけれど、その中にはバリバリ働きたい人だっているだろうし、趣味より仕事が好きな人もいるかもしれない。
東京駅だって5時は人もまばらなのに、オルレアン市の片隅で仕事に向かう人だっているのだ。
そんな光景を見て、もし観光のテンションで来ていたら、自分はこの情景をこんな風に捉えなかったかもしれないな…と子どもながらにぼんやり思った。
▲泊まったホテルにめちゃくちゃ似ているベッド&窓。相部屋で3~4人の部員と窓から外を眺めてた。
慰問コンサートでは、観客のおじいちゃんやおばあちゃんが、野の花(たぶんそのへんで摘んだであろう花)や Bonbon(飴)をたくさんくれた。
古今東西、お年寄りの考えることに違いはないんだなと思ったし、しわしわの手に力を入れて車椅子を動かそうとする姿も、日本の慰問コンサートで出会ったお年寄りと何も変わらなかった。
歌も舞台も関係ないその光景に、なぜか切なく胸の奥がじーんとなったのを今でも覚えている。
連日宿泊していたホテルでは食事が簡単なセルフビュッフェ形式で、なぜか列の最後でこれでもかとすべての料理にソースをかけられた。
そのソースの味が苦手だった私たちは、ソースをかけようとする係の兄ちゃん(たぶん学生バイト)に、笑顔で「Non,Mercy」と皿を死守したのだが、結局は「N'hésitez pas(遠慮すんな)」と、だくだくにソースをかけられていたものだ。
こういうこと日本でもあるよね…と部員同士で苦笑しながら話したけれど、誰もそこまで嫌な気はしていないのも伝わって、何だかその雰囲気が丸ごと愛しかった。
オルレアンから離れる日が近づいたある日、冗談交じりに友人が言った。
“もうさ、このへんなら地図なしで歩けそうじゃない?”
確かに何往復も歩いた道だったけれど、実際に地図なしで歩くことはできないだろうとは思った。
けれど私は「そうだね」と答えた。
その言葉が「海外を海外と思わなくなった瞬間」をあらわす言葉としてストンと自分のなかに収まった気がしたからだ。
遠くにあると思って、どこか理由のない“憧れ”をもっていた海外は、私たちと同じ誰かの「居場所」だった。
そこにはキリっとした早朝の空気があって、年輪を感じさせる天然のような人間臭さがあって、意志疎通ができていそうでそうでもないあやふやな関係性があった。
それらはすべて、彼らの日常の一部だ。訪れた人に「見せる」ためにあるものじゃない。
それに気づいて初めて、自分がその「居場所」へ自然と同化していくような、中に入れてもらえるような感覚が、私にはとても心地良かった。
これらの経験で感じた「海外」という場所の捉え方・考え方は、その後の私の歴史観や海外を見つめる視点の基本になっていったように思う。
フランスと私の不思議な関係
高校卒業後の進路はほぼフランスに引っ張られたように決まった。
それまではどっぷり日本史専攻で世界史はまったくのド素人だったくせに、どたんばで西洋史専攻にチェンジ(後悔はないがやっぱり大変ではあった)。
無事入学してからも“フランス”は色々なところで私を先導した。
第二言語選択、研究テーマ、それに付随する原書、文学読解……
そんな私だったが、大学卒業と同時にフランスやフランス文化からは自然と離れていった。
このブログや別ブログでも特別フランスについて書いたことはないし、更に言えばまったく違う国について言及することの方が多かったように思う。
そもそも自分が能動的に惹かれて興味をもった国ではなかったからかもしれない。
では何故、唐突にフランスについて書きたくなったのか。
それはやはり、今回の情勢において、改めて「国と人」の距離感や関係性について思うことがあったからだ。
私たちは国が伝えることや、国がツイートすること、映像に映るすべてのことに対して、日々感情を消費していく。
消費していく中で、だんだんと「目的を見つめるパワー」も消費されてしまい、一つ一つのニュースに飛びついてしまうこともある。
そうなると、どんどん国やメディアが作る<限定的な世界>に自分が支配されてしまうような気がするのだ。
あらゆる国家が揺れている今だからこそ、私は各国の市民同士が見つめ合う目が大切だと思っている。
そこに「政府」や「国家像」は介入させたくないのだ。自分が見るべき使うべきパワーの目的は、ストレートにその各国市民の方々でありたい。
私にとってそう思わせてくれる存在こそ、かつてオルレアンで見たサラリーマンの背中であり、お年寄りの皺だらけの手であり、あの調子のいい兄ちゃんの笑顔なのだ。
私は世界中にいるであろう「彼ら」に幸せになってほしいし、彼らと一緒に幸せになりたいし、彼らを通してみる<世界>の一員でありたい。
余談になるが、事あるごとにチャップリンの“世界市民”に強く賛同する理由もここから来ていると思う。
確かに、私にとって初海外がフランスである必要はなかったのかもしれない。
それはただの偶然であり、自分の特別な感情が当時も今もフランスにあったとは言えない。
それでも、私が「こう考えたい」「こう生きていきたい」と思った原点は、間違いなくフランスであの時出会った人々や情景から来ていて、もしそれらがなかったら、そのあとの自分の人生や、今回のことをどう受け止めていたかは分からないと思った。
フランスは私にとって特別な「国」ではなく、感じ方の原点の「場所」だ。
今、私はフランスで見た「見方」そのままに世界を見たいと思っている。
そんなことを思うとき、つかず離れずの距離感ではあるけれど、私とフランスの関係は確かに続いているのだなと思った。
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
今後もインドア趣味を中心に、楽しいことや学べることについて書いていきたいと思いますので、お時間があるときにおつきあい頂ければ嬉しいです♡
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