OK Lotus, ららりら ららら

インドア趣味人間が音楽/歴史/書評/映画/旅/時事問題などについてひっそり書いていくブログ

1年経って変わったこと。

 

久しぶりにブログを書ける時間がとれそうだと思ったのと、それが偶然にも2月24日になりそうだと思ったのは、数日前、仕事についたカウンターでのことだった。

次々に入れ替わるお客様の対応に追われながら、私のなかで“この一年”という物差しが、すでに元旦や新学期、ましてや個人的な就業の日ではないことをしみじみと悟る。

 

この一年。

私の一年。

世界の一年。

 

同じ単位と同じ質量で時は進むはずなのに、私にも家族にも世界にも、その全てに変化は起き、前進か後退か分からぬ変化を遂げてきた。

 

最初の数日、最初の数週間は、それこそコロナパンデミックとは比べようもない絶望を感じ、人間の愚かさと自分の無力さ未熟さに打ちのめられそうになった。にも関わらず同じように飲み食いし、隣人と談笑し、不安だ不安だと思いつつぐっすり就寝してしまえる自分や、世界の矛盾にうっすらと気分が悪くなったりした。

こんな時だからこそ笑顔でいよう、人を元気にしよう、という声もどこか白けて感じてしまうようになり(それは決して悪いことではないと分かっているのに)、もし隣にウクライナ市民が立っていたら、どんな振る舞いをすれば彼らに非礼にならないのだろうかと、そんなとりとめもない、答えもないようなことをぐるぐる考えたり。

そんな、心のどこかが麻痺したような感覚は今でも消えておらず、ただの近所の景色でも、一年前に見たものと今見る景色は、私のなかで変わってしまったような気がしている。

いいか悪いかは分からない。ただ、変わったことだけは分かる。

 

そして元からたくましかった想像力は、この一年でよりいっそうの磨きがかかってしまった。

以下、そんな暴走する想像力がこの一年で自問自答したものをいくつか。

 

有事の際、私は……

  • 国に残るのか、国外へ逃げるのか
  • 家族への説得、または別れを覚悟できるのか
  • 残ったら戦う組織に身をおくのか、守る組織に身をおくのか
  • 持病(たいしたことはなくても薬が必要な症状)の悪化に耐えられるのか
  • 過去の世界と目の前の世界のギャップに自分が壊れてしまわないか
  • 倫理的に、またはサヴァイブ的に、臨機応変な行動がとれるのか
  • ちゃんと人に感謝できる心を持ち続けることができるのか
  • 人間を信じることができるのか

 

これまで戦争映画や戦争小説に比較的多く触れてきたと思っていたけれど、それは登場人物たちの決断に沿って自分の選択をなぞらえていただけだ。

現実の、自分の「日常世界」での一つ一つの大きな決断には、複雑で煩雑で数多くのきっかけが存在するだろうし、例え最良の決断をしたとしても、その決断がもたらす一種の気まずさや虚しさは死ぬまでついてまわるだろう。

 

世界が変化したならば、当然私も変化する。互いに影響し合っているのが「世界」なら、それはむしろ健康的な流れだと言える。

その変化がいいことだったのか悪いことだったのかは、未来の自分、または未来世界の倫理観が決めることだから、今はそこに重きは置かないことにしている。

 

ただ、変わらないことも当然ある。

例え世界中のいくらかの人が私と同じ平和を望んでいないのだとしても、私はそれを望んでいるし、これまで私に関わってくれた人たちにもその望みは当然あるだろうと言えることである。

 

個人の平和(または個人の周囲の平和)は誰だって望むことだろう。

けれど、物価高や貧困のリスクを背負ってまで「世界の平和」を望む人は、きっとそう多くはない。

 

こんなことを言っては身も蓋もないけれど、民主主義であるが故に、善良であろうとするが故に、先進国のほとんどは欲をコントロールするようになり、どんどん経済的に貧困になりつつある。日本もそうだ。

貧困のままウクライナを支えられるのかと言われれば、答えはNOだ。だから、ウクライナ支援反対の声が生まれてくることも「構造的には」理解できる。

けれど、だからといって専制国家が好きにしていい世界なのかと問われれば、その答えも絶対にNOだ。

だから、民主主義国家はこのイデオロギーだからこそできる「知恵の結集」や、生活の安全と引き替えに生まれる「個人の能力」を最大限に活用しなければならないと思う。

未だにそれを各国のリーダーが理解して舵をきっているのか見えてこないのが、いくらか不安であったりもするのだが。

 

 

今の私は、まだまだ人が好きだ。

人間を愛しいと思うことができている。

そう思える環境に生んでくれた両親にも、そんな私を形作り関わってくれた友人・知人にも、ただただ感謝している。本当に心の底からそう思う。

 

ただ「何か」が起こったとき、この気持ちを持続できるかは、私の心の蓄え次第だとも思っている。

“何があっても世界を信じてる”と言うことは、今の私には欺瞞に思えるし、その渦中に置かれた人たちへも失礼にあたるような気がしている。

 

同時に、変わらない現状に惑いながら、つらい現実に耐えながら、それでも「信じたい」という気持ちは、自分から捨てさえしなければ決して心から消えることもない。

ウクライナの方たちは、きっと強固な意志の裏側で、この微妙な心の揺れ動きをもう何万回と繰り返しているのだろうと思う。

そんな人間らしい、おっかなびっくりだけど同時にいじらしい、小さな小さな気持ちの揺れが、何かのきっかけや誰かの救いにつながっていったりするだろうと思うのだ。

そこに声高に叫ばれる正義や勝利は必要ない。

その何とも頼りなさげな、きちんと定義出来そうもない微弱な気持ちの“揺れ”こそを、私は今信じたいのである。

 


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人は弱い。

だから強さを求める存在もでてくる。

人は弱い。

だから連帯し皆で生きようとする存在も出てくる。

 

愛が強いとか希望が勝つとか、そういう話じゃないのだ。

人間の営みの全てが弱さからスタートするならば、弱さを恥ずかしいことだなんて思うこともなくなるだろうになぁ。

 

そんなとりとめのないことを、でもきっと書き損じちゃいけない気がするあれこれを、久しぶりのブログで書いてみた次第でした。

【最近見て感慨深かった動画】

ウクライナ市民の方たち、色々と言いたいことも不平不満もあるだろうに、冷静に世界にサポートの感謝をしているのが印象的だった。


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最近好きになったウクライナの女性シンガーKOLA。

“Are we together?”と題されたこの曲には、遠く離れた兵士と恋人の「時間」を軸に、繊細で悲痛な気持ちが綴られています。


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Enemy vehicles continue to drive through our fields, bullets and shells fly. Every Ukrainian suffers from the terrible events of the war. Something is happening that probably did not dream in the worst dream.

Unfortunately, war is waiting. Indescribable pain is felt by every woman who waits every day in loud silence for news from her lover.

It was in such moments of anxiety that KOLA wrote the song "Are We Together?".

 

YouTube概要欄より

 

これほどまでに“Loud Silence”という言葉が突き刺さる歌詞は初めてかもしれません。

ぜひ日本語訳でも聞いて頂きたい曲です。